関孝和の生涯
関孝和(せきたかかず)は、江戸時代の初めに上州藤岡(現在の群馬県藤岡市)の武士、
内山七兵衛永明の第二子として生まれています。
生まれた年は、寛永12年(1635年)〜寛永20年(1643年)の間で諸説があり
はっきりしません。内山永明は、寛永16年(1639年)江戸小石川へ移っています。
したがって、上州藤岡の生まれか、江戸小石川の生まれか分かりません。
いずれにしても、上州藤岡にゆかりのあることは確かです。
5歳のころ、関五郎左衛門の養子となり、甲府藩(現在の山梨県甲府市)の徳川綱重に仕えて
います。延宝6年(1678年)綱重が亡くなり、その子綱豊に仕えて、勘定吟味役となって
います。綱豊が、六代将軍徳川家宣となると、関孝和も直参として江戸詰めとなり、
西の丸御納戸組頭に任ぜられています。
宝永5年10月24日(1708年12月5日)没。墓は、牛込七軒寺町(新宿区牛込)浄輪寺。
孝和に男の子は無く、娘二人もひとりは貞享3年(1686年)に10歳くらいで、
もうひとりは元禄11年(1698年)に20歳くらいで亡くなっています。
甥を養子にし、関新七郎久之としたが、享保12年(1727年)あるいは享保20年(1735年)に、
博奕(ばくえき,ばくち)が露見し重追放になり、関家は断絶しています。
関家の断絶が、関孝和の生涯について、分からない点が多い理由の一つです。
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生誕350年記念切手(1992年発行)
文化人シリーズで発行されたこの記念切手は、
1642年生まれ説を採用しているようです。
1642〜1708と読み取れます。
良く分からないものをここまで出さなくてもと
思います。藤岡市文化財保護課のページには
この記念切手の画像を掲示していますが、
少しぼけていて、年が読み取れません。
切手の背景には、いくつかの代数方程式から
変数を消去する生尅を計算する方法の、
斜乗の図がえがかれています。
肖像は、岩手県一関博物館のものを基にして
いるが、これも疑いが残るものです。
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