労農 船津傳次平(ろうのう ふなつでんじべい)

 「上毛かるた」で有名な、船津傳次平(ふなつでんじべい)も和算家です。
   船津傳次平は、最上流を大川茂八に、関流を斉藤宜義(さいとうぎぎ)に指導を受け、
   斉藤宜義より算術免許を皆伝されて関流八伝になりました。


 船津傳次平の生涯と業績
   船津傳次平は、天保3年(1832年)11月1日勢多郡富士見村原之郷
   (現在の前橋市富士見町原之郷)の生まれです。幼名は市造です。
   父親は、自宅に寺子屋「九十九庵」(つくもあん)を開き、文芸、国学、書等を教えて
   いました。市造は、15歳くらいまで、父親に農村の指導者としての教養を学びました。
   18歳のころ、栃木県足利市小俣の大川茂八郎をたずね、最上流算学
   (さいじょうりゅうさんがく)を学んでいます。

   嘉永3年(1850年)、玉村町板井の斉藤宜義に入門して、関流算学を学び、
   安政3年(1856年)25歳で、赤城山の赤城神社に算額を奉納しています。
   万延元年(1860年)斉藤宜義の門人が『数理神篇』(すうりしんぺん)という
   算額を収録した本を発行していて、船津正武(ふなつまさたけ)名で、序文を
   書いています。文久2年(1862年)関流八伝になっています。

   安政5年(1858年)に、原之郷の名主に選ばれて以降、たびたび選ばれ
   明治元年(1868年)原之郷を含めた30数カ村の大惣代も務めています。
   明治以降は和算家としては、業績は無いようです。労農と尊敬される業績があります。

   明治政府の農業近代化政策によって、東京駒場農学校(後の東京大学農学部)が
   設立された時、農民ではただひとり教師に採用されました。
   その後、日本全国を回る巡回指導者となり、生涯にわたって農業振興に努めました。
   労農とは、農業技術の改良や普及につとめた、優れた農業指導者のことです。
   明治の三労農とは、群馬県の船津傳次平,香川県の奈良専二,奈良県の中村直三
   または、群馬県の船津傳次平,香川県の奈良専二,福岡県の林遠里のことです。
   明治31年(1898年)6月農商務省を退官。6月15日に、吐血して急逝。67歳でした。





 太陽暦耕作一覧
(たいようれきこうさくいちらん)
   明治5年(1872年)に太陰太陽暦から
   太陽暦に変わり、それまで長い間
   太陰太陽暦を使ってきた人々は、農作業
   の時期が分からなくなり、困りました。
   傳次平は、「いつどんな農作業をしたら
   よいか」が分かる『太陽暦耕作一覧』を
   作り、農民に喜ばれました。

 木盤小方機(もくばんしょうほうき)
   傳次平は、明治9年(1876年)に
   地租改正用掛に任命された時、手製の
   測量器具である木盤小方機を作って
   測量を指導しました。

 上記2件については、和算の知識が役だった
 ものと思われます。
 そのほか、俳句も楽しんだようです。

出典
 『群馬の和算家 ―そろばんの師匠たち―』
   大竹茂雄著 上毛新聞社刊 1988年

 『「上毛かるた」で見つける群馬のすがた』
          群馬県発行 2010年

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